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「人生は冒険旅行」──「マッサン」が再放送される今、広島から始まったウイスキーの物語を、もう一度

2026.5.15
竹鶴ピュアモルトがBar Little Happinessのカウンターに並んでいる。

「人生は冒険旅行」🥃

朝ドラ「マッサン」を貫いた、忘れられないひとことです。

スコットランドから日本へ嫁いだエリーと、ウイスキー造りに人生を捧げた亀山政春(マッサン)。
愛と挑戦の冒険旅行に、日本中が泣いて笑った、あの朝の物語。

放送から、もう12年が経ちます。

それでも今、再びNHKで再放送が始まり──あの感動を、もう一度、味わっている方も多いのではないでしょうか。

そして実は、その物語の原点は──広島にあります。


広島・竹原から始まった、ウイスキーの物語

「竹鶴」という名前の、美しい由来

マッサンこと竹鶴政孝は、1894年(明治27年)6月20日、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)の造り酒屋の三男として生まれました。

実家は、今もなお竹原の町並み保存地区に佇む、由緒ある日本酒蔵「竹鶴酒造」。

その歴史は、江戸中期の1733年(享保18年)にまで遡ります。

「小笹屋」から「竹鶴」へ

竹鶴家は元々、「小笹屋」という屋号で、瀬戸内海に面した竹原の地で製塩業を営んでいました。

製塩は夏場の仕事。
冬場の余剰労働力を活かすため、1733年(享保18年)に酒造業も始めます。

そんなある時、家の裏の竹藪に──一羽の鶴が、巣を作りました。

当時の当主は、これを見て、喜んでこう言ったといいます。

「古来、松に鶴と聞くも、竹に鶴は瑞兆なり」

(昔から「松に鶴」という縁起の良い組み合わせはよく聞くが、「竹に鶴」は、それを超える、なんと素晴らしい吉兆だろうか──)

この出来事を機に、屋号を「小笹屋竹鶴」と改め、酒の銘柄としても用いるようになります。

明治の苗字制度と、「竹鶴」姓の誕生

江戸時代まで、武士以外の庶民は、公的に苗字を名乗ることが許されていませんでした。
しかし、家ごとに屋号や通称はあり、暮らしの中では使われていた──そんな時代です。

明治に入って、政府が「平民苗字必称義務令」(1875年)を布告。
これにより、すべての国民が、正式に苗字を持つことになりました。

このとき、竹鶴家は──屋号として親しまれてきた「竹鶴」を、そのまま正式な姓として登録します。

こうして、酒銘と姓が同じ「竹鶴」となり、全国でも珍しい、蔵元の姓と酒名がぴたりと重なる酒蔵が、ここに誕生したのです🍶

竹と鶴。
瑞兆を起源に持つこの美しい名前は、後に北海道余市の地で、ジャパニーズウイスキーの代名詞となっていきます。

日本酒蔵の三男として育って

竹鶴酒造は、頼家・吉井家と並ぶ竹原の三大塩田地主のひとつ。
そんな名家に、1894年、政孝は生まれました。

政孝の家系は少し複雑です。


政孝の父・敬次郎は、本来は分家筋でしたが、本家の主人夫妻が相次いで亡くなったため、後見人として本家に入り、酒造業を継ぎました。

このため、政孝は分家ながら、竹鶴の本家で生まれることになったのです。

当時、広島の酒造業界は、兵庫・灘の酒に負けない酒を造ろうと、蔵元たちが一丸となって品質向上に取り組んでいた時代。


政孝の父・敬次郎も、その主要メンバーのひとりでした。

「酒づくりのきびしさは、父を通して、私の血や肉になった」

政孝は後年、そう述懐しています。

日本酒造りの現場で「品質への徹底したこだわり」を肌で学んで育った少年は、やがて、洋酒の世界に魅入られていきます🥃

旧制中学時代は柔道部の主将を務め、大阪高等工業学校(現・大阪大学)醸造科へ進学。

卒業を前に摂津酒造に入社した政孝は、社の命を受け、1918年(大正7年)、24歳で単身スコットランドへ渡ることになります。

目的は、ただひとつ。

本物のウイスキー造りを、本場で学ぶこと。

当時の日本で「ウイスキー」と呼ばれていたものは、ほとんどがアルコールに香りと色をつけた、いわゆる「イミテーション・ウイスキー」でした。

政孝は、スコットランドのグラスゴー大学で有機化学と応用化学を学びながら、現地のウイスキー蒸溜所を訪ね歩き、「門外不出」とされていた製造法を、独学で、徹底的にノートに書き留めていきました。

このノートが、後に「竹鶴ノート」と呼ばれる、日本のウイスキー造りの礎となる、伝説の研究記録です🥃


リタとの出会い──「あなたの夢を、共に生きたい」

柔道の指南が、運命を変えた

1919年(大正8年)。

グラスゴー大学医学部に在籍していたリタの妹エラから、政孝のもとへ、ひとつの依頼が届きます。

「弟のラムゼイに、柔道を教えてあげてくれませんか」

その依頼を受けて訪れたグラスゴー郊外・カーキンティロックのカウン家。

そこに、25歳の政孝と、23歳のジェシー・ロベルタ・カウン──愛称「リタ」が出会いました。

「大きな、きれいな目で、私を見つめていた女性がいた」

政孝は後年、そう記しています。

リタは、医師の長女として恵まれた家庭に生まれましたが、その人生は決して平坦ではありませんでした。


第一次世界大戦で婚約者を戦場で失い、さらに1918年には父親も急逝。


9部屋もある屋敷を手放そうかという、苦しい時期でした。

そんなリタが、異国の地から来た一人の青年と、運命のように出会ったのです。

「私はあなたの夢を、共に生き、お手伝いしたいのです」

文学と音楽を愛したふたりは、すぐに心を通わせました。
リタがピアノを弾き、政孝が日本から持参していた鼓を叩く。

そんなある日、政孝は、リタにこう告げます。

「スコットランドに残っても、構わない」

愛する女性のために、自分の夢を捨ててもいいと、政孝は本気で考えていました。

しかし、リタは、はっきりと答えます。

「いいえ。あなたの夢は、日本で本物のウイスキーを造ること。
私はあなたの夢を、共に生き、お手伝いしたいのです」

国際結婚への抵抗が極めて強い時代。
カウン家・竹鶴家、双方の親族から猛反対を受けながら、ふたりは1920年(大正9年)1月、登記所での略式結婚を選びます。

そして同年11月、リタは政孝と共に、見知らぬ国・日本へと旅立ちました。


「日本のウイスキーの父」への、長き道

寿屋(現・サントリー)から、独立へ

帰国した政孝でしたが、摂津酒造はすでにウイスキー製造を断念。
失意の中、政孝は浪人生活を送ります。

転機が訪れたのは1923年(大正12年)。

「日本で本格ウイスキーを造りたい」という夢を抱いていた寿屋(現・サントリー)の創業者・鳥井信治郎から、声がかかります。

スコッチウイスキーの製造法を知る、当時唯一の日本人。
それが竹鶴政孝でした。

政孝は寿屋に入社し、1924年、京都・山崎に日本初のモルトウイスキー蒸溜所(現・山崎蒸溜所)を完成させます。


1929年、日本初の本格ウイスキー「サントリー白札」を世に送り出しました。

──ここに至って、政孝の名は、「サントリーウイスキーの直接的始祖」としても、日本のウイスキー史に刻まれることになります。

1934年、北海道・余市へ

しかし、政孝の理想と、寿屋の経営方針には、徐々に溝が生まれていきました。

「本場スコットランドと、同じ気候の地で、同じ製法でウイスキーを造りたい」

その想いを胸に、政孝は1934年(昭和9年)3月、寿屋を退社。


同年7月、北海道余市郡余市町で「大日本果汁株式会社」を設立しました。

社名の由来は、「日本果汁」──このふたつの文字をとって、後に「ニッカ」と呼ばれるようになります。

ウイスキーは、すぐには造れません。
最初に売られていたのは、余市のリンゴを使ったジュースとワインでした。

そして1940年(昭和15年)──スコットランド留学から実に22年後。


待望の第一号「ニッカウヰスキー」が誕生します🥃

「ニッカ」という日本人なら誰もが知るブランドが、ここに、確かに産声をあげたのです。

「わしゃ三級は作らん」

戦後の混乱期。


他社が原酒をほとんど使わない低品質のウイスキーを次々と発売する中、政孝は頑として首を振り続けます。

「わしゃ三級は作らん」

このひとことに、政孝の生涯を貫く頑固な美学が、すべて表れています。

最終的には経営的な理由から三級ウイスキーの製造を受け入れることになりますが、その時も、酒税法上の上限ぎりぎりまで原酒を入れさせるという、せめてもの抵抗を見せました。

「本物のウイスキーを、日本人に飲んでもらいたい」

その想いを、政孝は最期まで貫き通したのです。

1969年、「新川」──宮城峡という奇跡

1967年、政孝は新原酒工場の候補地を探して、宮城県を訪れていました。

ふと、ある川の水を見つけ、その水でブラックニッカの水割りを作って飲んでみる。
納得の風味が、口の中に広がります。

「ここで作る」──その場で即決した政孝。
川の名前を地元の人に聞いたところ、なんと返ってきた答えは──

「新川(にっかわ)」

「ニッカ」と読める川の名前。
これを運命と感じた政孝は、1969年、ここに仙台工場(宮城峡蒸溜所)を完成させました。

奇跡のような偶然が、ニッカのふたつ目の聖地を、生み出したのです。

💡 「新川と竹鶴政孝の大騒ぎ」の物語、そして私が実際に宮城峡蒸溜所を訪れた際に伺った逸話を、別記事で深掘りしています。

「わしは悲しい。誰かに裏切られた!」──宮城峡蒸溜所を建てた竹鶴政孝が、思わず大騒ぎしたという、知られざるエピソードまで。

▶︎ 宮城峡蒸溜所レポート②「ニッカ」という名前の、ありえない偶然──新川と竹鶴政孝の大騒ぎ


2014年、「マッサン」放送──そして、世界が竹鶴を求めた

朝ドラが、ウイスキー文化を再生させた

2014年、NHK朝ドラ「マッサン」放送開始。

主演・玉山鉄二の堂々たる演技、初の外国人ヒロインとなったシャーロット・ケイト・フォックスのエリーの愛らしさ。


そして、ウイスキー考証に著名なジャーナリスト・土屋守氏を起用した本格的なウイスキー描写。

放送が始まるや否や、日本中で「ウイスキーブーム」が再燃。


それまでウイスキーを飲んでいなかった世代までもが、グラスを手に取り始めました。

2016年5月、伊勢志摩サミット。


竹鶴21年と竹鶴25年が、各国首脳に振る舞われたことで、その名声は世界に轟きます。

そして、World Whiskies Awards(WWA)をはじめとする国際的なウイスキーコンテストで、竹鶴シリーズは複数年にわたって世界最高賞を受賞。

世界中のウイスキー愛好家が、竹鶴を求めて殺到し始めたのです🥃

しかし、ウイスキーは、すぐには造れない

ここに、致命的な問題が立ちはだかります。

ウイスキーは、すぐに造れる酒ではありません。

17年熟成のボトルを造るには、最低17年前から樽を眠らせておく必要がある。

「マッサン」放送と、伊勢志摩サミットと、世界的評価。
これら三つが同時に重なった結果、需要は、供給を、はるかに上回ってしまったのです。

そして2020年3月──。

ニッカウヰスキーは、苦渋の決断を下します。

竹鶴17年・21年・25年は、惜しまれながら終売。

同時に、ノンエイジの竹鶴ピュアモルトもリニューアルされ、旧ボトルの「黒ラベル」も、もう新たに造られることはなくなりました。


竹鶴ピュアモルトとは──ふたつの蒸溜所が紡ぐ、唯一無二の物語

「ブレンデッドのように飲みやすいピュアモルトを」

竹鶴ピュアモルトは、ニッカウヰスキーが2000年に初めて発売した、看板ブランドです。

開発のコンセプトは、「ブレンデッドウイスキーのように飲みやすいピュアモルトを」。

ピュアモルトとは、グレーン(穀物)を一切混ぜず、モルト(大麦麦芽)100%だけで造ったウイスキー。
グレーンを混ぜたブレンデッドは飲みやすい反面、モルト100%だと味わいが強くなりすぎる──それが当時の常識でした。

ニッカは、この常識を覆します。

🌿 宮城峡蒸溜所のモルト原酒をベースに
🔥 余市蒸溜所のシェリー樽モルトで味付け

──ふたつの蒸溜所の原酒を絶妙にヴァッティングすることで、モルト100%でありながら、ブレンデッド並みの飲みやすさを実現したのです。

「対極」が「調和」する、奇跡

竹鶴ピュアモルトの最大の魅力は、性格の対極にあるふたつの蒸溜所が、ひとつのグラスの中で見事に調和すること🥃

余市蒸溜所:

宮城峡蒸溜所:

ふたつの蒸溜所は、まるで政孝とリタのよう。
力強い余市と、優しい宮城峡。
そのふたつが手を取り合って、ひとつの調和を生み出す──。

竹鶴ピュアモルトとは、竹鶴政孝とリタという、ふたりの人生そのものが、グラスの中に注がれているような、唯一無二のウイスキーなのです。

💡 宮城峡の「バルジ型ポットスチル」が、なぜあれほどまでに華やかな酒質を生むのか。
その技術的な秘密と、竹鶴政孝が宮城峡で目指した「完成形」については、別記事で詳しく解説しています。

▶︎ 宮城峡蒸溜所レポート④「バルジ」の秘密──ふくらみがなければ、宮城峡の華やかさは生まれなかった

▶︎ 宮城峡蒸溜所レポート①「今ここに竹鶴さんがいたら」──桜咲く蒸溜所で感じた「完成形」

旧竹鶴と新竹鶴──ジャパニーズウイスキー定義が分けた、ふたつの世代

2021年、「ジャパニーズウイスキー」の定義が、初めて生まれた

さて、ここまで「竹鶴ピュアモルト」の魅力をお伝えしてきましたが──

実は、この「竹鶴ピュアモルト」には、ふたつの世代が存在することをご存じでしょうか。

2020年3月のリニューアルを境に、旧ボトルと現行ボトルが、まったく違う酒として、ウイスキー愛好家の間で語り継がれているのです。

その背景にあるのが──「ジャパニーズウイスキー」の定義策定という、業界全体の歴史的な転換点でした。

つい最近まで──日本には、「ジャパニーズウイスキー」の法的定義が存在しませんでした。

「「日本で瓶詰めしただけ」「輸入原酒を混ぜただけ」のウイスキーが、堂々と「日本のウイスキー」として世界市場に出回る──。

ジャパニーズウイスキーが世界的なブームとなり、この曖昧さは、業界の信頼性を脅かす大きな問題となっていきました。

そして2021年2月、業界団体である日本洋酒酒造組合が、ついに「ジャパニーズウイスキーの表示基準」を策定します。

主な要件は:

つまり、「日本産原酒100%」でなければ、「ジャパニーズウイスキー」を名乗ってはいけない──という、初の明確なルールです。

旧竹鶴(黒ラベル)の、知られざる中身

竹鶴ピュアモルトは、2000年に「竹鶴12年」として登場して以来、ニッカの看板ブランドとして長く愛されてきました。

しかし、ウイスキー愛好家・業界内では、長年こんな噂が囁かれていたのです。

「旧竹鶴の独特のフルーティーさは、スコッチの原酒──
ニッカが所有するベンネヴィス蒸溜所のモルトが入っているからではないか」

ニッカウヰスキーは、1989年からスコットランドのベンネヴィス蒸溜所を所有しています。
ハイランド地方の伝統的な蒸溜所で、政孝が学んだスコッチの本場のモルトが、ここで今も造られている。

そして、旧竹鶴を飲んだ愛好家たちは、その色の濃さ、シェリー感、独特のケミカルなフルーティーさから、「これはベンネヴィスが入っているはず」と推察してきました。

公式に明言されたことはありませんが、業界では「旧竹鶴には、海外原酒(ベンネヴィスをはじめとするスコッチモルト)が入っていた」というのが、ほぼ定説となっています。

新竹鶴(2020年リニューアル)が、決定的に変わった理由

2020年3月。
ジャパニーズウイスキーの定義策定が業界で議論されている、まさにそのタイミングで、ニッカは「竹鶴ピュアモルト」を大幅にリニューアルしました。

公式発表で語られたのは──

「余市原酒の使用比率を高めた」

ということ。

しかしこの背景には、もうひとつ、語られなかった事情があると、業界では考えられています。

「ジャパニーズウイスキーの新定義に、合致する商品として作り直したのではないか」

事実、2021年に定義が策定されて以降、竹鶴ピュアモルトは、日本洋酒酒造組合の「ジャパニーズウイスキー表示基準」に合致した商品として、堂々と「ジャパニーズウイスキー」を名乗っています。

つまり、新旧の竹鶴ピュアモルトは──

「ジャパニーズウイスキー」という同じ名前の、まったく別物の酒

と言っても、過言ではないかもしれないのです。

飲み比べる、ふたつの世代

リトハピのバックバーには、旧竹鶴(黒ラベル)と、新竹鶴の両方が残っています。

これを並べて飲み比べてみると──ウイスキー愛好家の言葉が、まさに肌で感じられます。

どちらが優れている、という話ではありません。


これは、ウイスキー業界が大きな転換点を迎えた、ひとつの記録でもあります。

「世界に通用するブランドを守るため、日本ウイスキーは何を選び、何を手放したのか」

その答えが、リトハピのカウンターに並んでいます。

竹鶴政孝が、1894年に竹原で生まれてから、
スコットランドへの留学、リタとの出会い、寿屋での挑戦、独立、余市、宮城峡。

その85年の生涯の集大成が、グラスの中に、確かに存在しているのです。

💡 宮城峡蒸溜所には、もうひとつ、知る人ぞ知る逸話があります。
「雀が止まれない空」──電線を地中に埋めた、竹鶴政孝の徹底した美学について。

▶︎ 宮城峡蒸溜所レポート③ 雀が止まれない空──電線を地中に埋めた男の美学


広島の店として、語り継ぐべきこと

「広島生まれ」の竹鶴を、広島で味わうという意味

リトハピは、広島・流川にあるRum&Whisky専門店。

「マッサン」を観た人たちが、ふと思いを馳せる、あの物語の出発点──広島県竹原市は、リトハピから車で1時間半ほどの距離にあります。

竹原市の町並み保存地区には、竹鶴酒造の家屋が今も残り、政孝とリタの銅像も建てられています。

朝、竹原で「マッサン」の故郷を巡り、夕方、広島市内に戻ってきて、リトル・ハピネスのカウンターで終売した竹鶴を一杯──。

これは、広島という土地でしか味わえない、特別な一日だと思います🥃

「人生は冒険旅行」のその先へ

マッサンとエリーの「人生は冒険旅行」は、今もなお、グラスの中で続いています。

竹鶴政孝が広島で生まれ、スコットランドで学び、余市と宮城峡を結んで築き上げた、日本のウイスキー文化。


その物語は、ニッカウヰスキーの技術者たちに、肥土伊知郎(イチローズモルト創業者)のような後進たちに、そして全国のクラフトウイスキー蒸溜所に、確かに受け継がれています。

リトハピもまた、その物語を、広島の地で、語り継ぐ一人でありたいと思います。

「マッサン」を観て心が動いた方。


広島出身のウイスキーの父の物語に、もう一度触れたい方。


そして、「もう造られないあの一杯」を、本物のラインナップで飲み比べてみたい方。

広島に来られる際は、ぜひ、Bar Little Happinessへ。

3本並んだ姿を、こうしてお見せできる機会も、これからどんどん貴重になっていきます🥃


グラスの中の、冒険旅行

竹鶴政孝(1894-1979)。
ジェシー・ロベルタ・カウン、愛称リタ(1896-1961)。

ふたりは今、北海道余市町の小さな丘の上で、共に眠っています。

スコットランドの女性が、見知らぬ日本という国に渡り、夫の夢を支え続けた40年。
広島の青年が、本物のウイスキーを日本に根付かせるためにかけた85年。

そのすべての結晶が、グラスの中で、今も息づいています。

「人生は冒険旅行」──マッサンとエリーの言葉を借りるなら、
広島・竹原から始まった冒険旅行の、その続きを語り継ぐ場所が、
今、広島・流川にあります🥃

「ウイスキーもラムも、造り手の想いに触れたとき、もっと美味しくなる」

出逢いは必然。
Rum&Whiskyの世界へようこそ。

竹鶴ピュアモルトがBar Little Happinessのカウンターに並んでいる。

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【宮城峡蒸溜所を、谷本美香が現地で歩いた4本のレポート】

新川(にっかわ)の伝説、バルジ型ポットスチルの秘密、雀が止まれない空──。
2024年春、桜咲く宮城峡蒸溜所を訪れた私が、現地でしか得られなかった一次情報をまとめた連載です。

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竹鶴政孝が遺したニッカウヰスキーの世界には、まだまだ語るべきブランドがあります。

・▶︎「ピュアモルト」とは何か?──ニッカ蒸溜所限定レッド&ブラック


終売した竹鶴17年・21年・黒ラベルのラインナップ、お試しいただけます。
ご予約・お問い合わせは、公式LINEから🥃

🔗 オンラインショップ:https://shop.little-happiness.jp/


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ウイスキージャパニーズウイスキー造り手の想い入荷ボトル

【この記事を書いた人】

谷本 美香(Mika Tanimoto)
株式会社Little.m 代表取締役/オーナーバーテンダー

広島・流川で2006年からウイスキーとラムの専門店「Bar Little Happiness」を営む。国内外の蒸溜所を訪ね、造り手の話をコラム「ウイスキーとラムの手帖」に綴っている。広島市優良技能者。

「ウイスキーもラムも、造り手の想いに触れたとき、もっと美味しくなる」

【お店の情報】📍 Bar Little Happiness

広島市中区流川町5-14 Rolling流川 1F
月〜土 19:00〜24:30/日 19:00〜24:00(店主が蒸溜所へ旅に出る日はお休み)
ノーチャージ・予約不要

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