高藏蒸留所|60年ぶりの復活と、イチローズモルト誕生前夜の一本の電話
2026.8.24
「本当は手伝いたかったんだけど、うちはちょうど免許がなかったから」
水戸の社長室で、加藤高藏社長は話してくださいました。
イチローズモルトについては、このブログを読んでくださっている方は、ほぼほぼ知っているかと思います。
埼玉・秩父蒸溜所が造る、世界で最も評価の高いジャパニーズウイスキーのひとつです。
トランプの絵柄をラベルにしたカードシリーズは、オークションで信じられない金額がつきます。
そのウイスキーが生まれる前。
廃棄されそうになった原酒を抱えて、イチローズモルト創業者、肥土伊知郎さんが引き取り先を探して回っていた時期があります。
難航した、とどの資料にも書かれています。
その、探して回った先の一軒が、水戸「明利酒類」でした。
いま私が座っているこの部屋に、20年以上前、肥土伊知郎さんが座っていた。
その事実は、どこにも記録されていません。

1860年、水を求めて水戸へ
明利酒類の始まりは、水です。
創業家の加藤家の先祖はもともと新潟にいました。
最高の酒造りをしたい。そのために最適な水を探したい。
そう考えて全国を放浪し、1860年、水戸のこの土地にたどり着きます。
そこで井戸を掘った。 それが、すべての始まりでした。
発酵も、蒸留も、熟成も。 今も全て、この同じ土地で行われています。
元の屋号は加藤酒造店。
1950年に明利酒類となり、会社設立の2年後、 社長の祖父が、ウイスキー造りを始めます。
けれど10年後、火災で工場が焼失しました。
「私が小学校4年生か5年生の頃でした。単式蒸留器が焼けちゃって」
社長は当時をそう振り返ります。
設備がなくなれば、当時はウイスキーの製造免許を返さなければならなかった。
返した免許は、そう簡単には戻ってきません。
「ミトカウヰスキー」という名前で売っていたそうです。
現物のボトルは、もう一本もありません。
そして、20年前の社長室
イチローズモルト肥土伊知郎さんが秩父蒸溜所を創業する前。
埼玉県羽生市に、羽生蒸溜所という蒸溜所がありました。
肥土さんの家業である東亜酒造が運営していた蒸溜所です。
2000年に蒸留が止まり、貯蔵庫には原酒だけが残されました。
その原酒が、今の秩父蒸溜所の始まりになります。
ここまでは、調べれば出てくる話です。
その原酒の行き先を探していた日のことは、ほとんど詳しくは記されていません。
加藤高藏社長は、当時、日本蒸留酒造組合の関東信越支部長。
肥土伊知郎さんのお父様は同じ支部の理事で、社長の大学の15年ほど先輩でした。
「年に何回も、勉強会や懇親会で会っていた仲だったんですよ」
肥土さんのお父様からは、以前から何度か相談を受けていたといいます。
東亜酒造は全国の生協との取引を持つ大きな会社でしたが、経営が厳しい状況に入っていました。
そこへ、サントリーを辞めた肥土伊知郎さんが帰ってきます。
会社は日の出みりんによるM&Aへ。
肥土伊知郎さんは、樽の廃棄を命じられました。
父と祖父が造ってきた原酒です。
「もったいないことできるわけがない」
肥土伊知郎さんから、社長の元へ電話がかかってきて、相談に来たんだそうです。
肥土伊知郎さんは社長室に2、3時間いて、 途中でうなぎ屋へ行き、食事をして、また戻ってきた。
けれど、その時、明利酒類にウイスキーの免許はありませんでした。
免許が火事でなくなっていたからです。
「免許がなければウイスキーの保管はできないのか。税務署に確認したりして……」
それでも、どうにか力になってあげたいと、社長はこの部屋から電話をかけます。

当時、名簿を見てもウイスキーの免許を持つ蔵は分かりませんでした。
ご自身の人脈をつかって、免許を持っていそうな会社に電話をされたそうです。
そうしてたどり着いたのが、福島の笹の川酒造(現・安積蒸溜所)でした。


事情を話すと、返ってきたのは二つ返事だったといいます。
「わかりました、お話聞きますよ」
その足で、話は動きました。
「トントン拍子でしたね」
携帯電話が普及する前の話です。
「加藤さんしかいないんです」
この一本の電話のあと、羽生の原酒は笹の川酒造の貯蔵庫へ移ります。
そうして、2004年、ベンチャーウイスキーが設立されました。
肥土伊知郎さんは笹の川酒造の名前でボトリングしたウイスキーを持ち、東京のバーを一軒ずつ回っていった。
そこから、イチローズモルトが始まります。
その後、皆様もご存知のとおり、イチローズモルトは、世界中の愛好家から熱烈な支持を集める存在となりました。
肥土伊知郎さんのお父様が亡くなったとき….
「加藤さんにお願いしたい」と言われ、弔辞を述べられたそうです。
イチローズモルトの原酒の相談を受けた蔵の主が、その父親を送る言葉を読む。
そんな関係が、この二つ会社の間にはありました。
とても前の話だから、記憶が曖昧なのだけど…
そう前置きしながら、私の質問に、とても丁寧に誠実に、思い出せる順に、ひとつずつ話してくださいました。
100人が働く会社の社長です。
それなのに、少しも威圧的なところがありません。
弔辞を頼まれた理由が、分かる気がしました。
交流は、今も続いており、
その後、明利酒類の看板商品「百年梅酒」を、イチローズモルト秩父蒸溜所の樽で熟成させた商品が生まれました。

(濃厚で爽やか!)
60年、止まっていなかったもの
明利酒類は60年間、ウイスキーを造っていませんが、止まっていなかったものがあります。
ひとつは蒸留技術。
アロスパス蒸留器という連続式蒸留器を、1950年から使ってきました。
粗留アルコールを純度の高いアルコールに変え、全国の酒蔵へ販売する事業です。
導入当時、日本で数社しか持っていなかった装置です。
富山の三郎丸や、鹿児島の津貫にもありました。

(HPから拝借)
そしてもうひとつが、酵母です。
明利酒類は1968年から酵母の開発を続けています。
小川酵母、そしてM310酵母。日本酒の業界では、知らない人がいない名前です。
全国およそ1,000社ある酒蔵のうち、240社がこの会社の酵母を使っています。
4本に1本!すご!!
香りは、発酵で生まれます。
どんな酵母を使うかで、できあがるお酒の香りが変わる。
60年、ウイスキーは造っていない。
でもこの蔵は、香りを生む技術のほうを、ずっと磨き続けていました。
名前
2022年、明利酒類はウイスキーの製造免許を取り直します。
60年ぶりでした。
蒸留所の名前には、いくつも候補があったそうです。
「水戸の琥珀」という案もあった。
けれど選ばれたのは、曾祖父の名前でした。
「高藏」
社長と、同じ名前です。

(高藏蒸留所の題字。旧字の「藏」は初代・加藤高藏に由来)
高藏蒸留所。
60年ぶりに動き出した、水戸の蒸留所の名前。
その名前を冠した蒸留所で、いま何が造られているのか。
そして、60年ぶりに免許を取り戻したのが、なぜ次男だったのか…
後編に続きます。

(明利酒類の社長室にて、加藤高藏社長と、息子さん加藤喬大さん)
「ウイスキーもラムも、造り手の想いに触れたとき、もっと美味しくなる」
出逢いは必然。Rum&Whiskyの世界へようこそ。
📍 Bar Little Happiness
広島市中区流川町5-14-1F
月〜土:19:00〜24:30 / 日:〜24:00(最終入店・約1時間前)
定休日:ほぼ年中無休
ご予約・お問い合わせは、公式LINEから🥃
この記事を書いた人
谷本 美香(Mika Tanimoto)/株式会社 Little.m 代表取締役・オーナーバーテンダー
広島県広島市で20年続くRum&Whisky専門店「Bar Little Happiness」店主。
2006年の創業以来、ウイスキーとラムの感動を伝える専門家として活動しています。
世界中の蒸留所を自ら訪問し、造り手と直接対話した一次情報を持つ、現場主義のバーテンダー。